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THE DREAM OF THE BLUE TURTLES

なにかこう、久しぶりに面白いものを見たような気がする。WBA世界ライトフライ級王座決定戦、亀田興毅×フアン・ランダエタ戦。あの亀田家の存在というのは、ギリギリいっぱいいっぱいな瀬戸際感がマゾ的に観る者を多分に刺激していると思う。本当の強さなんてどうでもいいのだ。もはや。

会見でのビックマウス、ハンバーガーをかじるパフォーマンス、そして亀田家の世界制覇に向けたストイックな物語。そう、劇薬的な物語がここにはある。大いなる欠落とそれを埋めようとする主人公のプロセスが。そうして、その物語、例えそれが多分に嘘や演出が含まれていたとしても、観客はその物語のフレームへと吸い込まれ、共犯者となることを選ぶ。小泉劇場やブッシュ劇場とまったく同じ。テレビ的。という点も含め。スペクタクルの強度こそが全てであり、現実をも凌駕する。もはや新しくもなんともないことだけど。

しかしながらポストモダン的環境は主体の統合性の衰弱を利用したこうした「大きな物語」のニーズを加速させる。繰り返すけど、これは文字通りの劇薬なのだ。劇的な薬物。と書いて劇薬(笑)。僕等はこういった類の物語には今、目がない。劇薬でしか快楽は得られない。そして彼等の今後の挑戦から益々目が離せない(笑)。彼等は典型的なヒーロー、アンチ・ヒーローの境界を行き交いし、今後の記者会見での微妙さ加減も含めて、滑稽さは加速し、わかっちゃいるけど見てしまう感はさらに強まるんだろう。この、あまりにもベタな感触が、今の時代にとって「ちょうどいい」んじゃない?(にしてもちょっと飽食気味かもしれなが)。もはや洗練さは力を持たないのだ。洗練さは劇的じゃあない。だからこそ、適度の洗練と、適度のベタ感との、境界線をどうやってデザインし、均衡をつくりだすのか。というのが今のクリエィティヴのプログレッシヴさなんだと思う。

で、ちなみにこの日記のタイトルはスティングのソロファーストアルバムのタイトルからの引用。青海亀達が見る夢。セレブミュージック。懐かしい(小島)。
# by spore_edit | 2006-08-03 17:46 | kojima
場所と眼差しについて

二年前の正月、僕はカメラマンの石原さんとともに自分の故郷に訪れた。石原さんのポートレイトの企画、「生きながらにして遺影を撮る」での、ちょっとした撮影旅行だった。これは思った以上に刺激的で面白い被写体体験だった。もしあなたが今死ぬとしたらどのような遺影を望むのか。遺影というものは生きている時点から準備をする必要があり、その遺影としてのポートレイトは何度でも更新されるべきものである。というコンセプトのもと、果たして僕はどこで撮られたいのか、と考えた時、自然ともう何年も帰っていない故郷の海岸で撮影したいと思ったのだった。僕自身はもう何年も自分が育った場所に帰っておらず、思いがけない自分の青春時代の追体験になった。

友人からもらった『極西文学論』(仲俣暁生著)を読んだ。ここで言う極西文学論の「極西」というのはヨーロッパから見た日本の、アメリカを通過した果ての位置のことを指す。高度資本主義の波がヨーロッパから派生してアメリカで爆発し、そしてその爆風の余波を更に西の果ての国である日本がモロに受けている。そういった欧米のポップカルチャー、テクノロジーの影響下にある村上春樹以降の90年代の日本人の作家達を取り上げ、小説の現在形について筆者は語っている。同時に、これは僕等にとっての「場所」の問題について語った本でもある。例えば、前述したような、これがもしかしたら自分のイメージの最期になるかもしれない、という「死」と向き合わざるを得ないポートレイトを考えた時に、自然と自分の脳裏に浮かび上がってくる最も生々しく強烈な思い入れのある場所、風景、空気感・・・というようなもの。そういった類のイメージがこの本の根底にあるんじゃないだろうか。

そう。極西。というだけあって、この本では「場所」や「位置」について大きなこだわりを見せている。いわゆる、「私はどこにいるのか」についての古くて新しい問題。ずっと更新され続けている問題でもある。かつての「大きな物語」は漠然とした方角を示しても、自分たちをモチベートすることが出来た時代だった。フロンティアへ。西へ。彼方へ。という具合に。まだ名付けられていない方角や地上があり、そこに自分達の欲望を向けることが出来た。が、情報技術、あるいはグローバリズムの進展によって、今、あらゆる場所はスキャンされ、監視されてしまっている。言うならば私たちの居場所は半ば剥奪されてしまっいている。隠れ家というか、自身の生活と密接に関係している場所、そしてそれが何かしらの生へのモチベーションとなりえるもの。そういうものをいかにして再発見するべきなのか。そしてそれは本当に可能なことか。日本の作家達はどういった形でこの問題と向き合っているのかを、仲俣氏はこの本のなかで検証している。

ここで問題になるのは、どのようにして自分たちの居場所を見いだすのか。という、眼差しのあり方になる。その眼差しというのは超越的な俯瞰の眼差しではありえない。俯瞰の欲望は人々を逆に盲目へと導く。今間違いなく眼差しの質の変容というのが起きていて、世界は限りなくフラットになり、視えてしまう領域は拡大していく。しかもそれは私自身の視える力ではない。視る、という機能はどんどん「私」から遠ざかっていく。自分自身の視界から見た自身の居場所というものをどのように提示するのか。それは、どのように私は世界を視ていて、世界はどのようにして私を見ているのか。その、視界のフレームをデザインすることでもある。

大きな物語が終わった後、そのどでかいブラックホールを埋めるように俯瞰的なヴィジョンが欲望として拡大している。その一方で、そういった俯瞰的な欲望を支えるように、人間のメンタリティは分裂化していっている。欲望の薬物化、現実感覚の喪失、シニシズム。といった具合に分裂はさらに進む。この悪循環を少しでも緩和するための世界へのアクセスの方法として、「物語」の存在があるんじゃないだろうか。それは恣意的な「物語の構造」を超えた、眼差しを俯瞰的な世界から逸脱させる連続性を持ったヴィジョンとしての「物語」、という意味においてだが。誰にでもその人自身でしか感じることが出来ない独特の磁場があり、その場所でしか生まれ得ない身体的な感覚があるはずだ。そういった意味においては石原さんの遺影に関する企画は僕にとってまさしく「極西文学」であった。この本ではあらゆる意味におけるローカリズムに着目し、自分自身を再発見するための眼差しの方法論を解説している。場所と眼差しとのコンビネーションの、その考察こそが、小説を現代へと向き合わせる(小島)
# by spore_edit | 2006-07-31 19:10 | kojima
「見えない」というリアリズム

父親は息子に死んでしまった妻の面影を思い出し、彼女の幻影を追って過剰に息子を愛するのか。それとも、実は彼は父親ではなく、かつての戦友の息子を引き取った義父として、同性愛者として過剰に息子を愛するのか。何が語られ、何が語られていないのか。という境界が、微妙な緊張感のなかで絶えず揺れ動く。スクリーンのなかに生まれては消えるオレンジ色の光と呼応するように。2ヶ月前ほどに観たアレクサンドル・ソクーロフの『ファザー、サン』はそのような語られているものと、語られていないもの。見えるものと、見えないもの。そういったものが交互に明滅し、スクリーンを覆う、優れて古典的な映画の語り口をもった傑作だと思った。

そういった見えるものと、見えないものという、イメージと他者との問題について、今非常に危機的な地点に僕等は存在するんじゃないかと思う。いわゆる、「他者の苦痛への眼差し」の有効性とはありえるのか。という問いは、あまりにも現代的でシリアスなものだと思う。暴力のイメージは日々更新され、あらゆるところに遍在し、人々を刺激し、欲望させる。ショックと恍惚との、両方の側面がある。特に写真だけではなく、テレビ、そしてインターネットと、かつては見ることが出来なかった暴力の生々しさの強度がプログレッシヴされていく状況だ。『他者の苦痛への眼差し』におけるスーザン・ソンタグは「大衆文化が許容しうる暴力とサディズムのレベルが上がっている」と考える。これはいわゆる東浩紀の「過視化」であり、阿部和重の「可視化」でもある。一見管理の届かないような空間にイメージは逃走するが、それはシステムによってユーザに検索可能なネットワークの場へ引きずり出される。そうやって日々満たされていくのだ、ユーザ達の果てしないショックと恍惚への欲望が。

かつての戦争写真は、常に新聞などの報道によって現地の陰惨な現状として我々に訴えかけ、残酷な現実の証拠として見る者に突きつける機能があった。ジャーナリズムとして、ベトナム戦争における写真報道は意義深いものがあった。しかしながら今はどうなのだろう?戦争にまつわる写真の理念と実際のイメージが解離しつつある。そう、ソンタグは考える。冷笑的に、無感動に、写真は受け止められ、それは決して行為には変換されることはない。

酒井隆史著作における『暴力の哲学』においても、同様の問題が扱われている。この本の最も面白いところは、後半の暴力と速度の問題とを結びつけて、ヴィリリオを引用しながら論を進めているところだと思う。「テロリズムは物理的破壊そのものではなく、破壊の表象こそが核心と言える」とし、「クラウゼヴィッツにおいては、「別の手段による政治の継続」として政治に従属するものであったはずの戦争が、両大戦における総力戦から冷戦を通して、テクノロジーの発展も相俟って、戦争の論理、あるいは原理的にいえば速度の論理が自律して政治を支配し消去している」と説明している。

すなわち、イメージや情報という実際の暴力が不在なところで、世界の構造そのものが生み出されつつある、ということだ。土地、あるいは身体の剥奪から生まれる、速度の支配。というか、今暴力を語るということは、グローバリズムが内包する根本的な力学についてを語る、ということと同義だ。「パレスチナの「テロリズム」がスペクタクルを活用したのは、土地を喪失し、一切の表象=代表の回路を喪失した人々が最後に見いだした「領土」だったからです。」として、我々に残された領土とは、「スペクタクル」、すなわち情報でありイメージである、としている。

こうした「スペクタクルが現実を凌駕する」という姿勢に対して、真っ向からソンタグは反抗する。「現実は退き、現実の再現のみ、メディアのみが存在する」というボードリヤール的なスタンスにも同意しない。「残虐な映像をわれわれにつきまとわせよう」と彼女は言う。「たとえそのような映像が象徴に過ぎず、それが言及している現実を到底網羅していなくても、それらはなお重要な機能を果たしている」と。イメージ上の苦痛と現実の苦痛とは永遠に一致しないのかもしれない。しかしながら、僕らにとって、このような「呪われたイメージ」を引き受けることは避けられない。

見えるものと見えないもとの境界線をいかにしてデザインするのか。果たしてそんなことが可能なのか。意志が欲望を超えることが可能なのか。そういうことを僕は考える。ソクーロフの映画を想い出しながら。窓枠に隠れる女の視線。迷彩服。男の吐く息の音。屋上を登る隣人。路上電車の銀色に光るレール。見えているもの。見えないもの。その、細切れな反復。「見えない」という身体性のリアリズムは生き残っていけるのか。ソクーロフの映画の中で主人公の男は国家からも、家族からも、あるいは女からも阻害され、そして最後に残った息子との絆さえも消え去ろうとしている。かすかに見えるのは、オレンジ色の光だけ。最後に、彼の息子はこう不安げに切り出す。僕はそこにいる?と。(小島)
# by spore_edit | 2006-07-24 20:00 | kojima
狂人の最期

売り言葉に買い言葉。その二つの言葉の投げあいは結局のところ暴力なしでは決着することはなく、言葉によって言葉を終わらせる、ということはありえない。ロラン・バルトの言葉を借りれば、「言語活動は言語活動を閉じるのには無力」である。言葉はお互いの狂気をクールダウンさせるどころか、ヒートアップさせる。馬鹿、アホ、間抜け、サディスト、天然、ロクデナシ、気違い、テロリストの息子!そう、こういった言葉を使った殴り合いは結局のところ、ホンモノの暴力を使わなければ止まらない。

それにしてもそれは唐突だった。いくつかの会話のやりとりの後、いきなり彼は相手の胸目掛けて頭突きを喰らわした。何故?????マテラッツィは彼になんと言ったのだろう。逆上し、我を忘れてしまうような、そういう聞くに堪えない言葉だったのだろうか。8年前の決勝戦でも彼はヘディングを決めたが、今回のヘディングはマテラッツィの胸に対してだった(苦笑)。どうせだったら、奴の額めがけてヘッドバッキングを決めてやり、奴の顔を血まみれにしてやればよかったのだ。この、シャツを引っ張ることしか能がない卑怯者めがっ!!!!!という感じで。

しかしながらその頭突きをかました張本人のジダンは、やはり狂気の人なのだ。パッサーというとかなりクリーンなイメージがあるが、彼らは常にギリギリの危険なパスコースを狙っており、それは常に相手DFにひっかかてしまうリスクを伴ったチャレンジでもある。音楽評論家の細川周平氏はかつての天才パッサーであるネッツァーを「危険それ自体が「救い」や転向の契機を内包していることを本能的に理解している」と評していたが、それはジダンにも当てはまる。彼は常にリスクとチャンスの表裏一体の境界線上でプレーをしていた、狂人なのだ。だからそこ、今回の常軌を逸した、あまりにもショッキングな事件のなかに、彼のプレーヤーとしてのキャラクターが多分に含まれていたとしても当然なんじゃないだろうか。特にトーナメントに入った後の彼のプレーというのは天才的なプレーの連続で、理性が吹っ飛んでいる状態での、かなりすれすれのテンションが持続していたんだと思う。彼はいつ壊れてもおかしくなかった。ましてや最後の試合、尋常ではない精神状態だったのでは。

こんな決勝戦での結末を迎えると、なおさらジダンの大会だったという印象が強い。特に今大会史上最強チームとされていたブラジルのあまりにも悲惨な惨状から、ジダンのファンタジーがさらに目立ってしまった。もしくは、プラティニがあるインタビューで今大会を「監督の大会」と評したという記事があったけど、まさしくその通りだったと思う。レベルが決して低いということではなく、選手の個性が前面に出ていたというよりも、緻密な戦術をもとにした非常に緊迫した戦いが多かった。そして決勝においてもやはりイタリアの戦術、特に守備における巧さが光っていた。「監督の大会」であるのならば、その大会の中心にいたのはやはりリッピなんじゃないかな。選手の配置、試合展開の読み、選手交代の妙。すべて当たった。チャンピオンズリーグでも勝ち、そしてW杯においても勝てる監督はそうそういない。彼を中心にして、色んな武器を持つ選手がフレキシブルに機能し、そして活躍した。それがイタリアが大会を制した最大の要因だと思う(小島)。
# by spore_edit | 2006-07-11 22:52 | kojima
顔の不気味さ

アルノー・デプレシャン監督の『キングス&クイーン』を観終えた後の、言葉にならない絶句感といったら、あまり今まで体験したことがないものだった。これは映画なんだろうか。完全なるフィクションとしては何かの間違いなんじゃないか、と思ってしまうようなあまりにも重い質感。かといってドキュメンタリーでもない。物語の核心的な部分は洗練などされずに、残酷なまでに生々しく、どう受け止めていいか分からないまま放り投げだされている。

「クイーン」を演じるあのエマニュエル・ドゥヴォスの顔の不気味さが、僕の網膜にこびりついて離れない。への字のように両わきが下がった口元。印象深い眉毛。四角張った顔の輪郭。そして大きい瞳。彼女は笑い、喜び、憂い、泣き、戦慄する。死者とのコミュニケーションを通し、彼女のその表情は在る一定の緊張感の中で保たれるようになる。それも様々な感情を抱え、表情は断続的に変調し、均衡が崩れることを恐れながらも。そして必死に自分自身を存在させようとする意志が、彼女の表情、口元、眉毛、顔の輪郭からあらゆるわかりやすい形容詞を剥奪する。彼女の表情は必死に変調し続ける。

死者の言葉というのは徹底して重いものだ。もはやその言葉は動かしようもなくて、その言葉にこめられた感情も永遠のものとなる。自分自身の存在は否応となく変化していくのに対し、死者の言葉は生気を失い、ぱったりと動かなくなる。まず、そういった状態を理解し、受け止めることにひどく戸惑う。そう、死者からの手紙というのは受け手をひどく混乱させる。無数にあった「それ以外の可能性」が全てなくなり、「たった一つの過去」となってしまう突然の暴力。そんな予測不能な暴力に、人は恐怖を抱くようになる。理解しえないという純粋なる恐怖。しかしながら「恐れてはならない」と、アルノー・デプレシャンは語る。自分自身についての罪に対しても。あるいは、死者が向ける自分自身に対する言葉に対しても。

エマニュエル・ドゥヴォスの陰惨でありながら、あまりにも強すぎる近親相姦的な愛憎関係とは別に、もう一人の主人公である「キング」を演じるマチュー・アマルリックは非常にユーモアに溢れ、軽快そのものであり、お調子者ぶりが全開である。あるいはフランスにおける中産階級の没落のシンボルとして(?)、精神病を患い、奇行を繰り返す。病医院行きのすれすれな神経で、かろうじてこんな軽口をたたき続ける。プライドを捨てよ。血縁としての家族。あるいは、絆としての家族。その両者を敬え。そして己の愛するものを成し遂げるべし。と、彼は身振りを交え、あの独特の人懐っこい表情で、しゃべり続ける。そしてエマニュエル・ドゥヴォスと同様、彼も非常に気まぐれに表情もキャラクターも変化し続ける。哲学者かペテン師か。人徳車か偽善者か。そうやって彼は軽快に物語を掻き回し、イメージの混乱を招待する。彼にとってはルールも還元も根拠も無縁で、必要なのはいくつもの均衡だけなのだ。

マチュー・アマルリックと義理の息子との会話が終わり、少年は母親のもとに去る。そして映画のスクリーンが暗転し、映画そのものが終わりを告げたとき、僕は言いようもない感情に捕らわれたのだった。こみあげるものさえあった。シーンを観て感動したのではなく、この、あまりにもシリアスで陰惨なテーマを扱い、なおかつ何の統一感もなく、一定のわかりやすい形容詞が剥奪された物語が無事に、見事に着地した。そのことに大きく感動したのだと思う。物語が終わるという安堵を感じさせる映画なんてのは、そうそうない。
# by spore_edit | 2006-07-09 04:14 | kojima
先導者でありながらかつ異端者

やっぱ衝撃的なニュースだったと思う。中田英寿の引退というのは。彼については一言では語りつくせないが、偉大なるパイオニアであったことは間違いない。また彼独特のパーソナリティも印象深かった。そしてスポーツ選手にとっての新しいプロモーションのあり方もつくった選手だった。選手自身がWebサイトを通して自分の言葉でファンにメッセージを発信し、自分の哲学やライフスタイルをグラウンド以外からも提示していく。という、ある意味サッカーだけにとらわれない価値提案というものに彼と彼の所属する事務所が、戦略的にアプローチしていた部分が新しかった(しかしながらあの引退にまつわるメッセージはちょっとだけ違和感を感じてしまう。なんとも言えないもどかしい感じというか)。

純粋にサッカー選手としてみると、ピークというのはかなり前に過ぎていたかもしれない。またヨーロッパで活躍していたが、ある特定のクラブに居続けることがなかった選手でもある。かなりビジネスよりのクラブとの関係が強いような気がした。その分クラブのイメージと中田自身のイメージがシンクロせず、彼のプレースタイルとチームの戦術がマッチしているという幸福な関係はほとんどなかったように思える。むしろグラウンド以外でのビジネスが優先され、彼は常にピッチでは疎外され続けてきた。しかしながらクラブとは対照的に日本代表における彼の役割というのは非常に巨大だった。特に98年における彼の攻撃的なスタイルというのはとても印象に残っている。あの時の彼の感性の鋭さというのは異彩を放っていた。常にスルーパスとミドルシュートが彼のプレーの選択肢の中に存在して、絶対にボールを下げない。というスタイルは新鮮だった。思慮深い司令塔というのではなく、ジャックナイフのような切れ味鋭いパッサー。98年の地区予選ではそんな彼の強気なプレースタイルがチームを助けた。

しかしながらトップ下という最もタフさが要求されるポジションで、彼はジレンマに苛まされる時期がその後ずいぶんと続いたと思う。スキル的にはトップ下を務めるほどの技術的にスペシャルなものは持ち合わせていない。が、ボランチをこなすほど守備の技術がある訳でもない。というか、攻撃的なメンタリティを最大の特徴とする選手だった。特に現代サッカーにおいてDFラインとボランチとの間のスペースというのは限られていて、精巧なボールコントロールの技術以外にも、ハードタックルをブロックできる身体的能力やスピードも要求されるタフなポジションだ。日本人がイメージしている「司令塔」というポジションは、ヨーロッパにおいてはかなり厳しい環境になる。そしてその意識のズレは日本人のパッサー特有のトップ下でもボランチでもありえない。という共通の大きな悩みを生み出している。

中田英寿の引退によって、日本のサッカーは確実にまた別のフェーズに入っていくんだろうと思う。彼ほどの強いパーソナリティというのが現れるんだろうか。いわゆるスポーツ選手にありがちなメンテリティとは無縁だった。この彼の独特のメンタリティが彼の立場を孤独でなおかつ孤高なものにした。ある意味、体育会計の男達が集うチームの中では彼のクールさやスタイリッシュさは必然的に浮いていしまう。あれほど団体競技向けではないパーソナリティを持つ男が中盤の司令塔のポジションにいる。という矛盾をボクは常に感じ続けていた。先導者でありながらかつ異端者。という、非常にアンバランスな立場に居続けた人でもある。こんな個性を持った選手は当分出てこないような気がする。

次の日本代表の攻撃のイメージリーダーは誰になるのか。興味深い。小野伸二なのか中村俊輔なのか。それとも松井大輔なのか。オシム・ジャパンはここ3大会の日本代表とはまったく違うチームになるかもしれない。
# by spore_edit | 2006-07-09 02:40 | kojima
カテナチオとファンタジスタの復権

突然ながらW杯の話。ご多分に漏れず中毒患者のようにテレビに釘付け。そしてこの60数試合の観戦にさすがに疲労を覚え始める。あと数試合で終わる。という喜びと鬱。その両者の正反対の感情が日々交互に、そして次第に強烈に自分を襲い始めている。ぐっはーー、W杯終わったらどうなんだろ、自分(笑)。怖すぎる。という訳でいくつかの試合のレポートをここで(って長すぎ)。

準決勝フランス×ポルトガル
フランスの堅い守備ブロックをなかなか崩せないポルトガル。かなり守備重視の試合だ。ポルトガルはフィーゴやクリスチャーノ・ロナウドがいい突破をするのだが最後まで崩しきれない。パウレタがマークをはがしきれなかった。やはり思うのは、フランスは守備がベースのチームなのだ。ティュラム、ギャラス、マケレレ、ビエラ。といった黒人の強靭な身体能力とヨーロッパにおける伝統的な戦術眼を兼備した、サッカーにおける人種を超えた才能のリミックス。といったことに成功したチームなんだと思う。クラブチームではこういった実験というのは今まで多くなされてきたが、ナショナルチームでこの実験をここまで成功させたチームはいない、ということなんだろう。

98年の当時の優勝チームも守備のキャラクターが強かった。試合展開も相手の攻撃をボランチでフィルタリングし、最終ラインで確実に摘み取る。という、強さと巧さがあるDF陣が印象的だった。攻撃で言えばこの日のジダンにはかなりハードなマークがつき、彼独特の優雅なプレーはあまり見せることはなかった。よって両サイドのウィングもそれほど活躍できず。それに対してポルトガルがとにかく両サイドを根気よく押し込み続けた。が、やはりセンターフォワードの問題だ(右サイドのミゲルの負傷も痛かったが。しかしこの選手は素晴らしい)。もっと大型でポストワークに長けたアタッカーか、それともテクニックとスピードにアドバンテージをもつアタッカーがいればまたワンステップ上のチームになれるのだが。けれども個人的には非常に好印象が持てるチームだったと思う。

クリスチャーノ・ロナウドのスピードの快楽に釘づけになるし、フィーゴのボールタッチも素晴らしかった。それにデコのプレーヴィジョンも。決勝戦は正真正銘のジダンのラスト・ダンスになる。堅い守備から素早い展開でジダンにボールを預け、アンリがトドメを刺す。という展開に持ち込めるか。対するイタリア。このチームもまったく同様の個性のチームだ。フランスよりも白人主導の、より戦術重視のチームと言える。タレントの質としてはフランスなんだろう。まったく実力的には互角。というかこのカードはユーロ2000の決勝と全く同じだ。イタリアのリヴェンジとなるのか、それともジダンが「神」としてグラウンドを去るのか。というマッチになるんだろう。しかし彼のような正統派ゲームメイカーは絶滅に瀕していて、なおかつ彼が決勝まで残った。とても象徴的だと思う。

準決勝ドイツ×イタリア
ハードワーカーとボールプレイヤーとのバランス。ダイレクトプレー。そしてソリッドな守備。イタリアの特徴がよく出た準決勝のドイツ×イタリア戦だった。またリッピ監督の采配が悉く当たっている。ガットゥーゾ、ペロッタ、カモラネージ。という、攻守に汗かきが出来る選手をピルロとトッティの周囲にバランスよく配置しているのが印象的。特にペロッタ、カモラネージはスペースを見つけてはフリーランニングを繰り替えす。無尽蔵なスタミナ。そして彼らを巧く使うピルロとトッティのダイレクトのパスの応酬。

トッティはまるでボールを足ですくいとるようにワンタッチでコントロールし、前線に一気にパスを出す。この選手は本当に独特だ。決してゲームメイカーではない。リケルメやジダンのようなパッサーとは明らかに違う。彼らのようにボールをキープし、独特の間合いによって攻撃のペースダウンやスピードアップを自在に操る。といった印象は微塵もない。とにかくカウンタープレーに徹し、如何にして少ないボールタッチで試合を決めるか。というベクトルに技術が注がれている。

そして中盤の真ん中にいるピルロはどちらかと言うとリケルメやジダンのようなプレースタイルに近い。このゲームにおける彼は素晴らしかった。正確なミドルパスで攻撃をコントロールし、決勝点のアシストとなったノールックパスも痺れたね。ここでやはり重要なのはトッティやピルロといったパッサーの周囲にはガットゥーゾやペロッタがいる。ということだ。この点で日本代表は大きなミスを犯している。にしてもデル・ピエロのゴールが見れるなんて思わなかったな。いいもの見れたよ。

ベスト8 ドイツ×アルゼンチン
アルゼンチンの選手には玉際の強さを感じる。上背はあまりないがハードに体をぶつけてきて、きっちりと相手の体勢を崩すことを意識している。特にリケルメの後ろにいるマスケラーノのディフェンスは天才的。重心を低くし、間合いをつめながらここぞというタイミングで一気にかすめとる。彼だけではなく、カンビアッソやマキシ・ロドリゲスといったハードワーカーが揃い、彼らが中盤の底から前方のバイタルエリアまでをカバーしている。リケルメはルックスでかなり損をしているが(笑)、古典的かつロマンティックなボールプレイヤーで、ボールタッチの一つ一つに独特のリズムがある。彼がボールを触ることによってショートパスの軌跡は既視感を免れる。前半はこのボールキープの差が両チームの差として出ていた。

逆に後半はドイツの攻撃的な選手の投入で流れを引き寄せる。ボロウスキーとオドンコールで強引にサイドをこじあけ、クロスをねじ込んでいく。特にリケルメを下げた後はドイツの圧倒的な展開になってしまう。やはりサイドを繰り返し突くことによってマークがずれるし、アルゼンチンのタフなDFもFWにつききれない。そこでクローゼが見事に決める。GKの負傷もアルゼンチンにとってはかなり致命的だった。アイマールもメッシも投入できず。アルゼンチンは自慢の攻撃陣を出し切れないのは痛い。延長戦はアルゼンチンペースだったけど、決めきれず、PK戦になってしまう。個人的にはアルゼンチンを応援していたんだけど・・・すごく微妙な条件が重なり合わさってゲームの流れがアルゼンチンとドイツとの間を振り子のように往復した展開だったと思う。リケルメとカンビアッソの交代は良かったんだろうか(苦笑)。これはすごい難しい決断だったと思うけど。ただアルゼンチンとしてはここが分岐点になったような気がする。結果論だけどね。しかしなーーー、もっと見たかったよ、テベス、メッシ、サビオラ。

ベスト8 ポルトガル×イングランド ブラジル×フランス
やっぱポルトガルだ。このヨーロッパの辺境のチームこそ今大会のマイ・チームだ。ショートパスとドリブルを主体としたクラシカルなスタイルと情熱。これがあればいい。ブラジルには後者の情熱が足りなかった。ポルトガルのフィーゴは相変わらず足捌きは華麗。スピードはないが、彼がボールを触ることでチームとして攻撃の意志が覚醒する。これでデコが帰ってくるならば、より前線の創造性が上がるのは間違いない。イングランドは思考停止に陥っていた。今大会ずっと。チームのなかで誰よりも考えないといけない監督が思考を放棄している。そもそもの話、ウォルコットの選出は何かの悪い冗談以下だ。豪華なタレント陣は美しく統合することなく、ただひたすら愚鈍だった。

にしてもブラジルだ。アドリアーノを外すという判断はしょうがないと思う。あれだけボールを失い、運動量も少なかったのだから。ロナウドも運動量は大会当初から比べるとかなり上がったが、かなり細かく動かないとテュラムもギャラスも振り切れない。トラップもなかなか決まらず。アドリアーノ、カカ、ロナウド、ロナウジーニョの4人にこだわり過ぎた。前線の連動性、機能性という点ではなかなかスピードが上がらないし、特にロナウジーニョは常に窮屈そうだった。やはり彼を左のウィングに置く、というバルセロナの戦術は偉大な発明だったのだ。「史上最強チーム」は得てして敗れ去るもの。という、見事なサンプルになってしまったブラジル。やはり悲しい。アルゼンチンとともに悔いが残る敗退となってしまった。アルゼンチンに対しては今でもサビオラかメッシを入れていたら。という思いが残っている。未練がましく。ブラジルに対しても同様の未練がある。南米という「カオス」をいかにして統合させるのか。という非常に難しい問題を、パレイラもペケルマンも解決することが出来なかった。

フランスはジダンが素晴らしかった。独創的なボールコントロールとプレーヴィジョンで相手DFを凌駕。でもフランスは実はビエイラとアンリがフレッシュな状態で大会に臨めているのがいいんだと思う。しかしながら個人的にはポルトガルに勝って欲しい。そして決勝はポルトガルとイタリア。デコとマニシェのゴールでポルトガルの優勝(笑)。


ベスト16 ポルトガル×オランダ イングランド×エクアドル
テクニックだけではなく、駆け引き、狡猾さ、といった泥臭くも激しいゲームになったポルトガル×オランダ戦。素晴らしい試合になる。特にフィーゴ。この選手の狡猾な駆け引きで相手DFボルラースを退場に追い込んだ時、鳥肌が立った。クリスチャーノ・ロナウドを負傷退場させたDFに対してしっかりとリベンジをする。これでチームは盛り上がらない訳がない。

両チームとも似たタイプで、サイドアタックを中心とした攻撃的なスタイルのチームでかなり激しく打ち合った。オランダのロッベン、ファン・ペルシーのウィンガーは少なくとも二人を相手にドリブルが出来る。カイトがなかなか当たらなかったのは残念だが。それに対してポルトガルもテクニカルだが老獪さも備わったフィーゴ、パウレタ、そしてデコといった百戦錬磨の選手が素晴らしい働きをする。フィーゴはスピードはないが、柔らかいボールタッチと的確な状況判断で好機をつくる。デコもスペースを見つけパスを捌きつつも自らもスペースを突く動きが最高。得点シーンはポルトガルが右サイドをデコがえぐり、パウレタのポストのあと、ボランチのマニシェが決める。という、理想的なパターンだった。

この両チームの戦いを見ると、やはりサッカーは巧いだけじゃだめなんだ。と痛感する。日本には今回は相手を削る選手がほぼ皆無だったもん。中村や中田が削られた時、削り返す選手が誰もいない。というのは問題だ。そういった点においてはお子様のチームだったね、日本は。しかしポルトガルには痺れた。

その、ポルトガルと次回対戦するイングランドはエクアドルと対戦。エクアドルは南米3位のチームだけあって、守備がいいし、強豪チームとやり慣れている。といった印象。対するイングランドはなかなか攻撃が機能しない。ルーニーも孤立ぎみで、やはり彼のワントップは厳しいのでは。オーウェンがリタイアして前線の駒がしんどくなってしまった、イングランドは。この試合ではJ.コールはなかなかマークをはがし切れず、ランパードのミドルショットは決まらない。もはや彼は魔のサイクルにはまってしまったようだ。プレミアでの決定力を発揮できずにいる。

イングランドはやはり両サイドのベッカムとJ.コールが機能しないと厳しい。彼らが機能するためには前線で一度ポストワークが決まって、彼らが前を向いてボールを持てる時間をどれだけつくれるかにかかっている。が、ワントップでそれがなおかつルーニーとなると・・・次のポルトガル戦でどういうような布陣にするのか。エリクソン監督の采配次第のような気がする。

ベスト16 ブラジル×ガーナ
ブラジルはブラジルなのだ。試合の中で非常に波があり、ゲームにおける弛緩と緊張とを自在にコントロールする。そにしてもだ。セレソンのツートップは動かない。これでも予選よりはマシになったが。ロナウドもアドリアーノもくらげみたいにフィールドを力なく浮遊している。しかしながらカカやロナウジーニョにいい形でパスが入った瞬間、彼らは美味しい餌にありつくために、一気にギアをトップに入れる。一点目のロナウドのキックフェイントはさすが怪物。といった感じだ。スピードはそれほどない。が、確かなランニングコースと相手DFをブロックする、理にかなった体の使い方。隙がなく、最高の集中力をここぞという時に発揮し、最も正しい選択肢を選び取る。二点目のカウンターも素晴らしく、ここでもカカがからむ。今大会の彼は素晴らしいパフォーマンスだ。ロナウジーニョがおかげでちょっと厳しいが。しかしながら彼も確かなキープ、正確なパス、スペースを突くドリブル。と、高水準なパフォーマンスを続けている。今後の3試合にマジックを発揮して欲しい。にしてもアドリアーノだ。点は決めたが、ポストはまったく決まらず、ほとんど前を向いてプレーできなかった。彼らしい強引さも影を潜めている。次もスタメンで使うべきか。ジュニーニョを入れて中盤のマネージメントの質を上げ、ロナウジーニョを前線に上げたほうが健全なような気がする。

ベスト16 フランス×スペイン
ロナウドがコンディションを上げつつあるとなれば、ジダンも黙って入られない。ってところか。フランスはスペインを撃沈させ、ブラジルと対戦する。ジダンはあの大きな体を利用したボール捌きを何度ともなく魅せ、彼独特の優雅さを披露した。彼がボールを持つとフィールドに流れる時間が一瞬変わってしまったかのような錯覚を覚える。偉大だ。だからこそ、彼が終了間際に相手DFを切り返しで滑らせ、GKの逆を読みきったシュートには感動した。美しいボールタッチと的確な状況判断。それも勝負所になればなるほどブレがなくなる。というのがスペシャルな選手の条件である。そしてジダン以外にもビエイラやリベリ、そしてアンリといった選手が躍動し、スペインを押し込んでいった。初めはスペインのパスワークに圧倒されたが、次第にスピードに慣れるとフィジカルを前面に押し出し、攻撃を寸断してしまう。ビエイラ、マケレレ、ギャラス、そしてテュラム。といったフィジカルとクレバーさを併せ持ったDF陣は安定感抜群だ。スペインはもっと早くホアキンやルイス・ガルシアを機能させたかった。パスだけでは駄目だというのはフランスのリベリが証明した。彼のようなドリブラーがビエイラやジダンと融合すると、攻撃の質は上がる。スペインはシャビ、シャビ・アロンソ、セスク・ファブレガスとパッサーを揃えたが、ドリブラーがいなかった。それは日本と同様の、選手のセレクトにおける致命的ミスだ。
# by spore_edit | 2006-07-07 16:45 | kojima
感情移入とデザイン

わかりやすさというものに誰もが飢えている。ぱっと目に入る、視覚のインパクトというのは実際大きくて、わかりやすい。そういった欲望というのはこれから更に大きくなっていくんだろう。もはや良いとか悪いとかではなく、利用することも抗うことも出来ない。そういった時代に僕らは生きている。その中でもう一度、目に見えることとはどういうことか。あるいは、イメージすることとはどういうことなのか。という問いは大きな意味が出てくるんじゃないだろうか。そして、そういったことを考えるプロセスとして、デザインというものがある。

石岡瑛子さんの『私デザイン』は、そういった自らイメージし、デザインするということとはどういったことなのかについて書かれてある。いや、そういった難しいことは抜きにして、ただただ面白い。一人の人間の情熱、苦闘、笑いと涙、といった感情と感覚をフル稼働した記録がこの本の中に詰まっている。

『私デザイン』は彼女が渡米した後のポートフォリオとなっていて、例えば、ポール・シュレイダー監督の日本未公開映画『MISHIMA』における金閣寺が真っ二つに割れる大胆なセット。マイルス・デイビスのアルバム『TUTU』のジャケットにおける、顔と手の表情にフォーカスを当てるデザインワーク。あるいは、フランシス・フォード・コッポラ監督の映画『ドラキュラ』における剥き出しの筋肉をイメージさせる甲冑。といった作品とともに、それぞれの仕事との出会いから終わりまでのプロセスが書かれている。

本を読んで感じたのは、やはり当たり前のことを当たり前に、丁寧に、そして粘り強くやり通すことがいかに重要であるかが書かれている。これは本当に難しいことで、プロジェクトの規模が大きくなるほどさらにハードルは高くなっていくものだ。けれども、そういった難しいハードルを思考と行動によって見事に乗り越え、作品を創り続けた日々はまさしくドラマそのものだと言っていい。優れた作品の裏側にあるプロセスというのは作品以上に劇的なものになっていく。特に大きなプロジェクトにおいては関わる人間も増えてくるので、制作チーム間では多くのぶつかり合いが生まれる。彼女はこれを“愛と憎悪(ラヴ・アンド・ヘイト)の関係”と称し、どの仕事でもこういったことは起こり、受け容れるべきものと書いている。

また、実際のデザインワークについては、まずディレクターのコンセプトに対して彼女の中の本能的なアクションがあり、それを検証するために思考が繰り返される。といったプロセスが書かれてある。彼女は次のように自身のデザインについて語っている。「大切なことは、創り手の内部に在る“血”をデザインし、“汗”をデザインし、“涙”をデザインすることではないだろうか。・・・EMPASY(感情移入)を私のデザインのキーワードとしている」。

本能的であり且つ肉体的なフィーリングこそが、表現の最大のエンジンとなる。と言うのはあまりにも簡単だが、今やモニターの中で考え、イメージし、マウスを動かすことが多くなった僕らにとっては、なかなか難しいことだ。というか、これはデザインの問題のみならず、あらゆるクリエイティヴの作業において、肉体を出発点とした表現というのは難しく、だからこそ非常に魅力的でもある。そういったことを意識し、考え、より感覚的で肉体的なアプローチとはどういったものなのか。そして単なるわかりやすさを超えた、創り手と受け手との共犯的コミュニケーションとはどういったものなか。『私デザイン』はそういった問いを反復し、具現化することに向けた最良の起爆剤となりえる本であると思う(小島)。
# by spore_edit | 2006-05-17 15:42 | kojima
いかに秘密を生み出すか

古本屋で見つけたレオス・カラックスの本、『レオス・カラックス―映画の21世紀へ向けて』を一気読みしてしまう。あくまでも『ポンヌフの恋人』を中心とした本だが。彼の生い立ちや、映画へのモチベーション、そして作品制作の秘話、というのが書かれていて、一気に読んでしまった。割と面白い。

基本的にはレオス・カラックスの作家性と、映画という産業システムとがぶつかり合う状況を中心に、『ポンヌフの恋人』制作における3年間という長期の撮影スケジュール、膨大に膨れ上がる製作費、プロデューサーや出資者との確執、あるいはカラックスとビノシュとの関係、等が書かれている。レオス・カラックスという純粋性が『ポンヌフの恋人』制作のプロセスを通して露になる、という仕組みとなっている。

やはり、レオス・カラックスという人はやはりものすごく強いロマンティシズムを抱える人で、それがある種の病でもあるという状態なんだろう。ロマンティシズムという幻想を生み出すのには「秘密」があるかどうかが重要だ。そしてそれこそが彼の人格の根本的な部分を形成していると思う。「秘密」というものに捕らわれ、そして自らそれを生み出す。「秘密」という魅力的な伝染病に完全に感染してしまっている状態。という印象を彼から受ける。そういえば彼の名前、「レオス・カラックス」という名前も偽名なのだ。表現というものは何も曝け出すことのみを言うのではなく、自分を隠す、隠蔽してしまう、というのも表現の一部だと言える。そしてカラックスというのは明らかに後者のベクトルに非常に意識的な作家なんだと思う。

監督というと、現場というチームを自在に操っていく、というものをイメージするが、カラックスの場合はある種の神秘性で現場が動いていく、という感じなんだと思う。実際、彼は『ボーイ・ミーツ・ガール』から『ポンヌフの恋人』まで、撮影現場では撮影監督であるジャン=イヴ・エスコフィエとしか話さないという。他のスタッフとは全くと言っていいほどコミュニケーションをとらないらしい。それは役者に対しても当てはまり、必要最小限の情報提供に止まる。作品の秘密、脚本の秘密、カメラの眼差しの秘密。そういったものが彼にとっての生命線になる。ストレートなコミュニケーション、欲求、というのが身体的な表現として現れるが(特にドニ・ラヴァンのなかに)、それ以外の言葉やイメージというものは非常に複雑で、秘密めいている。だから彼に対して酷く苛立つ人もいるんじゃないだろうか。特に『ポーラX』なんかはそうだと思う。

本を読んだあと、さっそく久しぶりに『ボーイ・ミーツ・ガール』を途中まで観てしまう。すごく過剰な演出、というかこれは凝った演出と言うべきか、細部にわたってすさまじいエネルギーが注がれている。終始陰鬱なムードと尋常ではない美への緊張感が充満しているが、それが時々ユーモアによって微かに解放される瞬間がいい。
# by spore_edit | 2006-05-08 08:23 | kojima
現実を仮借なく痛めつける文体


「わたしはずっと以前から、思ったことのすべてを述べるなんてことは諦めていた(思想と呼ばれているものが本当に存在するのかどうか、ときとしてわたしは疑問に思う)。わたしはこれからの一切を散文で書けば充分だと思った。詩とか長編とか中編小説などというものは奇妙な遺物で、もはやだれも、あるいはほとんどだれも騙されはしない。詩だの物語だのをなんのために作るのだろう。文体(エクリュチール)、もはや文体しか残っていない。言葉によって手探りし、綿密にかつふかぶかと探究し、描き、現実にしがみつき、現実を仮借なく痛めつける文体だけがある。知恵を生み出そうとしながら芸術を作るとは、難しいことだ。そういうことを知るために、あと一、二世紀も生きていられたなら、とついわたしは思ってしまう。」

とはル・クレジオの『発熱』の「手紙」と題された序文における言葉だ。すなわち、感情の統合という物語の力に抗うための限りない細部の追及に向かった、ただ純粋な書くことについての宣言文、と言ってもいい。『発熱』が発表されたのは1964年だから、ヌーヴォー・ロマン最盛期の時代だと言える。どのようにして物語という統合化のクリエイティヴを乗り越えるのか、ということに腐心していた時代だ。その一つの在り方が世界を微分化していくこと、だった。恣意的な感情のフレームのなかに事物が収斂することのないもの。あるいは、ある一つの視点から発生する構造を作り上げることのないもの。そうではなく、ただ世界の些細な部分を見つめ、描き、それに呼応する自身の感覚を追及する。その手段としての「文体(エクリュチール)」である。

こういった文体主義的なスタイルというのはどの時代でも存在する。60年代以降もそれぞれの時代にあった「文体(エクリュチール)」というのはリデザインされ続けてきた。例えば、ドン・デリーロの『ボディ・アーティスト』は現代口語体による不条理小説を書くことを試みたらこうなる、という優れたサンプルだ。この作品では余分な情報を極力殺ぎ落とし、意識・時間・感覚につての文体を構築する、という一点に力が注がれている。『アンダーワールド』のような全体小説ではなく、微分化された世界を書くときの一つの方法論がここにはある。最近読んだ日本人の作家においては、金原ひとみの『AMEBIC』は最高にカッコいい文体主義的な作品だと思う。主人公の記憶がなくなり、ある種のパニック状態になって錯乱しながら書いた「錯文」の文章で幕を開けるという、かなり凄い設定の小説だ(笑)。一つの自分、一つの世界から徹底してスライドし、分裂していく状態を文体のなかに出来うるかぎり反映している。ただし、ここにあるのはたった一つの世界から分裂し、解放される、というポジティヴな感触というのはあまり感じられない。『AMEBIC』における主人公は次のように「分裂」ということについて語っている。

「皮膚も触覚も脳も思考も、全て分裂して自分自身が疎外され、隔離され、断絶されるって感覚って、わからない?というより、分裂し過ぎて自分自身というものが分からなくなって、何百にも分裂したゾアは確固として存在しているのに、自分自身というものはそれらとは全く無関係の、違う世界に存在していて、無色透明無味無臭の実体のないものではないかという不安や疑問や恐怖、とか、分からない?」

というように、ある種の不安とか恐怖とか、そういった方向にどちらかというとある。文体主義的な作品を書き、女性である、という共通項をもつ作家・赤坂真理も自身の肉体が分裂していき、微分化していく世界観を文体のなかに反映するという試みを『ヴァニーユ』、『ヴァイブレータ』等にて行なっている。が、そこにはもっと楽観的な態度があったように僕には思える。むしろ解放とか、覚醒というニュアンスが強かった。しかしながら金原ひとみが向ける視線の対象というのは、人間の欲望そのものの減退から生まれるどうしようもない分裂に対してであり、同時にそこから生まれる倦怠や困惑に対してである。この感覚の違いというのは、やはり時代的な差なんじゃないかと思う。今の潮流はドゥルーズからフロイド主義に思いっきり向かっていて、そういった意味でも、金原ひとみはすごくタイムリーな形で文体というものを追及しているんじゃないだろうか。「現実を仮借なく痛めつける文体」として、『AMEBIC』は今の時代の現実に正確にアクセスしようとしいる作品だと思う(小島)。
# by spore_edit | 2006-05-01 09:12 | kojima
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